昭和43年08月25日 朝の御理解



  御理解 第90節
 「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい、道を開くというても匹夫の俗人が開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ、例え一時むつかしいことがあっても、辛抱していくうちには徳が受けられる。」
 
 本当の道本当の事、本当の道が開かれると言う事は、そう簡単な事ではないと言う事が分ります。もし簡単に開けるものがもし有ったとするなら、又有るとするならそれは本当の道ではない、と先ず知っていいです。おかげの道と言うのはそう簡単には開けない。上から下へ水を流す様な簡単にはいけない、というのである、しかもお互いが匹夫の凡人であるからとこう言う、是はもう総てのものがそうなんです。所謂凡人であるから難しゅうて暇がいる。そこで暇がいる間に、人間の知恵やら力で開くのではない事を分らして貰う。そこに神のおかげで開かせて貰うんだとこうあります。
 自分の我力でどうとかしてと、言わばあがきもがきしておる間は、本当の道は開きません。本当の幸せの道は開けません。所謂障子一重がままならぬ人の身であると言う事をです、辛抱して行く内、物が難しゅうて暇が要ると仰るその暇がいっておる間に、分らして貰わなければならない事、神のおかげで開かして貰うのぞと、為には障子一重がままならぬ人の身であると言ったような事が段々分って来なければならない。
 まあ自分であれも出来是も出来と言う間はまあやってみるもよかろう。けれどもそのそれだけ暇が要る時間が掛る訳である。段々信心を分らせて頂いて神様のおかげを頂かなければ立ち行かん、神様のおかげを頂かなければ本当の道は開かれん、自分で努力して開く道と言うけれども自分で努力した道はどう言う様な者か、どの様な事になるのか、それは本当の幸せには繋がらない。
 神のおかげで、開かせて貰うと言う道でなからなければならん。神のおかげで開かせて貰うと言う事は、いよいよ自分の力で、まあ言うならば、我無力であると言う事を、先ず知らなければ、自分には力がないと、そこから神様に、ひたすら一心に縋ると言う事になって来る。例え一時は難しい事があっても、辛抱して行く内に徳が受けられると、この辺が素晴らしいと思いますね。
 物が難しい一時には開けないそこん所を辛抱し、神のおかげで開かして貰うと言う所に、神様自分と言う物がいかに無力であるかと言う事を知り、また人間はこの障子一重が儘成らぬ人の身であると言う事、一寸先が闇の様である、障子一重の向こうの事が、どう言う事があっているのやら、私し共には分らんのが人間の実態である。実相である、そこで神様のおかげを頂かなければと言うのである。
 神様のおかげを頂かなければと言う所に、神様のおかげ頂かなければならんと言う所に、その信心に打ち込まなければ、おられない事になって来る。その打ち込ませて頂いている間に、神様のおかげで開かなければと言う事、自分が無力である事、障子一重が儘成らぬと言う事を分らせて貰う。そうして辛抱して行きよる内に、兎に角あなたのおかげを頂かなければ立ち行かん人間であり、私共であると言う事をです、分らして貰うて辛抱して行く内にね、徳が受けられる。 
 是が私は一番素晴らしい事だと思う、辛抱して行きよる内にです徳が受けられる、それは自然の間に道が開けて来る、それは道と言うても様々な事であるとこう思うんですね、先ず家庭の上に、幸せの道あり、自分だけではない、人も所謂自分も人も助かる道、しかも神様も一緒に助かって下さる事のでけれる道、ここん所をですね分らして貰わなければいけないね。
 例えば部分的であっても、その只自分さえ良かればよい、自分一家さえ良ければよい只自分の商売が繁盛だけすればよい、是なら言わば自分の努力と言うかね、それで開けておる事実はいくらでもあります。けれどもその事実は、本当の幸せには繋がらないと言う事を知らなければいけない。本当の幸せに繋がる道と言うのは、人も立ち自分も立ち行く道である。
 神様も立ち行って下さる道である。神様もままになられるなら、人も自分もままになると言うおかげの道が開けて来る。そう言う道をね、私しだけが立身出世したらそう言う道が開けただけで幸せになろうとは思われない。所がそこん所を皆んなが知らない、自分が出世すればもう自分一人が儲けだせばもう、自分の家庭だけが具合よう行けば、もうそれで幸せの様に思うておる。
 それが大間違い、そこが人間であるから凡夫であるから分らんのである。何故それが幸せに繋がらないかと言う事の説明は、又にする事にしましょうね。けれどもそれはそうである事をね、お互いね知らない人も立ち自分も立ち、人も立ちと言う事はそこんとこチョット説明するとね、世界中のものが立ちと言う意味ではないのですよ、私に関係のある人なんでっす、私に関係のある人も立たなければならない。
 そう言う道が開かれて来る。そこにそう言うおかげを頂かして貰うと言う事は、上から下へ水を流す様な訳にはいけん、上から下へ水を流す様に簡単な訳にはいけん、そこでそれを辛抱して行かなければならない、為には先ず知らなければならない事は、障子一重がままならぬ人の身である。人間の知恵力と言うものは浅はかなものである。言うならもう、私しには力はないのだ、無力だ神様の前には無条件に降伏した姿。
 そこで神様任せの信心生活と言うのが成されて行く。そこには一時は難しい事があっても、辛抱して行く間には、勿論道が開けて行くと同時に辛抱して行く間に徳が受けられる。それが大事なんだ、徳を受けると言うか。それがまあ言うなら、あの世にも持って行けこの世にも残しておけれる、自分自身も真実の幸せを得る事が出来ると言うものが徳であります。是は御理解第90節の大体の意味を申したです。
 そこでです、道を開くと言う事も、その道の開かれるまでの間の事なんですけれども、何処にどう言う風に焦点を置いたらよいか、その辛抱して行く間、どう言う様な生き方をしたら良いか。其の事を私神様にお願いさせて頂きよりましたらね、「治める」と言う字を頂いた、さんずいへんにカタカナのムを書いて口と言う字が書いてある、その辛抱している間にね、ろくそな生活と言うかね。
 ふしだらな生活であってはならない、先ず自分自身の心が治められて行かなければならない。あの人が中々治まって御座るとこう言うでしょうが、落ち着いている人、黙って御座るけど中々落ち着いて御座る、自分で治まって御座る、物が難しゅうて暇が要るけれどもその暇のいる間をです私が申しました様に、障子一重がままならぬ人の身であると言う事を本当に分らして貰う。
 神様のおかげを頂かなければ立ちゆかんと言う事が分るから、一心に縋る事になる。凡人の事で御座いますから、どこにお粗末御無礼があるやら分らんもんですから。そこん所を実意丁寧、その生活をさせて頂きながら、それでも道を開かせて頂く神のおかげで道を開くのぞと仰るから、神様のおかげで道を開かせて貰う、その道と言うても、只自分が立身出世をすると、自分の家だけが儲け出すと言うのでなくて。
 人も立ち自分も立ち、神様も立って下さる所のそう言う道が開かれる事を願い進めて、その願い進めて行く間の心の持ち方と言うのは、この治めると言う事である。さんずいへんにム口と書いてあるのは、さんずいへんと言う事は自然の流れと言う事であろう。さんずいと言う事は、ム口と言う事は無口である。黙ってと言う事なんです。自分の心に一切を治めてと言う事である。
 その間にはもう本当に言い訳をしなければおられない事もある。又は自分を宣伝する為に、矢張り自分の事を言葉に出して言いたい事もあろう。がそう言う時をですね、私黙って辛抱して行く。治めると言う事は自然の働き自然の流れ、それを黙って受けて行くと言う事。それが本当の治めると言う事。腹の立つ事もあろう、悲しい寂しい思いをする事もあろう、それを黙って受けて行くと言う事。
 黙って受けて行く間にどう言う事になるか、と言うと、その辛抱している間に徳が受けられると最後にこう御座います。辛抱して行く内には徳が受けられると言う事は、ね、只そこをいろんな事を辛抱しておるだけではなくて、言いたい事を辛抱してと言う事になって来るんです。ム口で、それはどう言う事になってくるかと言うと、いよいよ神様の働きの間違いなさを、信じれなければ出来ない。神様が見てござる。
 神様が聞いておって下さる、と言う確信を段々強くして行かなければです、矢張りしんぷ?の辛抱が出来ない例えば、自分がどんな悪い立場にあっても、神様がご存知なのだから、神様が見ておって下さるのであるからと、その自然のそうしたイヤな問題でも黙って受けてム口で黙って、辛抱して受けて行く内におかげが受けられる。 道が開かれる、そう言う道が、どう言う道が開かれて来るかと言うと。
 本当にもうあの人も立ち行きこの人も立ち行く、神様も立ち行って下さる様な道がです自然に開けて来るのです。そう言う道を開かせて頂かせて行く所の、願いを持ってお互い信心辛抱させて頂かなければいけません。私し共が願ってパッと開けた道が、もうそれが幸せな道の様な思い方をしてはなりません。いやそう言う例えばそう言う道だけであるならば、それは決して、本当の誰も立ち、彼も立ちと言う様な、神様も立って下さる様な道ではない。御理解90節の御理解を受けた訳で御座いますがね。
 その御理解90節を頂かせて頂く一番ポイントになる所、辛抱して行く内にと仰る辛抱して行く内とは、どう言う事を辛抱して行くか、自分の心を治めて行くと言う事。黙ってぐうぐう辛抱しとくと言うだけではなくて、自然の流れを、それをそれに抵抗する事なく、それに逆らわずそれを黙って合掌して受けて行こう、そこに自分の心が治まって行くと言う様なおかげ、そこん所が私ゃこの御理解の中心だと思うんです。
   どうぞ。